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赤坂ヒストリーPart.5

赤坂人のルーツ・赤坂ゆかりの人びと

赤坂紀州藩邸で育ち、溜池で泳いだ

徳川吉宗

徳川吉宗は徳川家康の十男徳川頼宣を初代藩主とする徳川御三家の一つ紀州徳川家出身の第8代将軍です。吉宗は紀州藩2代藩主・徳川光貞の四男として生まれ、紀州藩の藩主となり、その後8代将軍の座につきます。幼少期を広大な紀州藩中屋敷(現東宮御所、赤坂迎賓館)で過ごし、奔放な少年時代だったらしく、溜池で泳いだという逸話は赤坂では有名な話です。将軍となってからは、享保の改革で幕府の財政を安定させ、大岡越前守を登用し、裁判制度の改革や町の消防組織─江戸町火消を設置するなど、多くの改革を成し遂げ、名将軍と言われました。また、赤坂氷川神社を現在地に遷座し、自らの産土神としてお参りをし、大切にしました。

53年間、赤坂を愛した住人

勝海舟

勝海舟は深川で40俵扶持の貧乏旗本の家に生まれました。蘭学修行のため24歳の時に赤坂に転居、修行のかたわら赤坂3丁目(現)に住み、「氷解塾」を開き蘭学を教えていました。長崎海軍伝習所で航海術を学び咸臨丸で太平洋横断を成し遂げます。このころには氷川坂下の屋敷に転居。この屋敷は坂本龍馬が開国論者である海舟を斬る覚悟で訪ね、逆に説得されてその場で海舟の弟子になってしまったところです。時代は幕府に不利に展開する中、海舟は軍艦奉行や陸軍奉行、陸軍総裁、軍事総裁など幕府の要職に就任し、官軍が江戸に迫り、江戸決戦という時、江戸の焦土作戦を覚悟で、西郷隆盛と交渉し、江戸城の無血開城を実現しました。明治維新後は参議、海軍卿、枢密院顧問官を歴任し、伯爵に叙せられ、晩年は赤坂6丁目(現)の屋敷で77歳で死亡するまで過ごしました。

名裁きで有名な大岡越前守忠相の下屋敷

大岡越前守忠相

大岡越前守忠相は旗本の子として江戸で生まれ、35歳で山田奉行(伊勢奉行)に就任、様々な訴訟を裁きましたが、伊勢(幕領)と松坂(紀州藩)の境界争いをめぐる訴訟の際、紀州藩に否ありと采配しました。この時紀州藩主だった吉宗は、敗訴したにもかかわらず、忠相の公正な裁きに感服し、8代将軍になると、忠相を江戸町奉行に抜擢しました。その後、吉宗の享保の改革に参画し、司法制度の改革、目安箱の設置などいろいろな改革を行い、その結果吉宗により、正式な大名として取り上げられました。江戸時代において、町奉行から大名になったのは、忠相のみです。また、赤坂の豊川稲荷は大岡忠相が自邸内に地元の豊川から勧請したのがはじまりで、明治になってから、現在地に遷座されたものです。

2.26事件の凶弾に倒れた時の大蔵大臣

高橋是清

仙台藩士の子に生まれ、10歳で仙台藩の費用で横浜の英学塾に入学。13歳でアメリカに留学しますが、英語が理解出来ず、奴隷として売買する書類にサインしてしまい、牧童や葡萄園で奴隷として働かされることになりました。帰国後、文部省に入省し、英語教師として共立学校(現開成高校)で英語を教え、後に初代校長に就任しています。1892年に日本銀行に入行し、6年後には副総裁に就任。日露戦争(1904〜1905年)開戦時には日銀の副総裁として、外国に戦時公債の公募に出かけます。英国の銀行家から戦費調達をすることができ、日露戦争を勝利に導きました。また、昭和の恐慌時、蔵相として軍事予算の縮小を図り、軍からの反感を招き1936年(昭和11年)の2.26事件で、青年将校に赤坂の屋敷で殺害されました。その屋敷跡は東京市に寄附され、高橋是清翁記念公園として開放されています。