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赤坂ヒストリーPart.2

老舗が育まれた、これまでの100年

赤坂といえば、高級飲食店や花街のあるはなやかなイメージですが、江戸時代は大名屋敷や武家屋敷がほとんどで、赤坂に料亭が登場するのは明治時代も後半になってからです。赤坂の街の成り立ちや赤坂料亭の発祥について紹介しましょう。

赤坂の町は江戸時代に始まります。
赤坂の本格的な始まりは徳川家康の入府にあります。江戸城造営にあたっては、西に位置する赤坂台地には紀州徳川家(現在の東宮御所、赤坂離宮周辺)をはじめ大名や大身の旗本を配置して西の守りを固めました。江戸城入り口に赤坂見附門が置かれ、赤坂の町は坂の上の高台は大名や旗本が、門を出たすぐの坂下には幕下藩士、城内で働く職人方や庶民が住みました。低地を流れる川は溜池に注ぎ、溜池は江戸城外濠として整備され、一時は江戸庶民の水瓶として利用され、その水は京橋の方まで運ばれていました。

●江戸時代のため池から赤坂付近

●出典「大東京写真案内」博文館 新社

明治維新の大変革の中で赤坂は
大名や旗本、御家人などの武家屋敷がほとんどであった赤坂の町は、明治維新で多くの住人たちが国元に帰り、荒廃しました。明治新政府になると、広大な大大名の屋敷跡は軍事施設に、その他の大名屋敷や大身の旗本たちの屋敷は京都から移転して来た公家たちや新政府の高官、軍人、財界人たちの屋敷となりましたが、依然として静かな屋敷町でした。長州藩毛利家の屋敷跡は陸軍第1連隊へ、第2次世界大戦の後は防衛庁となり、現在はミッドタウンとなっています。また、安芸藩(広島藩)松平家の跡地は近衛第3連隊へ、そして、現在はTBSと赤坂サカス広場となっています。

赤坂花柳界発祥の地「溜池」
「溜池」はホタル飛び交う風光明媚な場所でした。周辺には景色を楽しむお客相手のお茶屋などができ、それが赤坂花柳界の始まりだといわれています。明治以降、軍人や政財界人の利用で、料亭や待合として発展。日清・日露戦争後には軍需景気を背景に大いに賑わい、明治時代後半には第一回の全盛期を迎えます。しかし、赤坂の花柳界を有名にしたのは、第2次世界大戦以後の経済も右肩上がりの高度成長の時代でした。黒塀の街には外車が列をつくって並び、その間を、芸者さんを乗せた人力車が行き交う風情漂う街だったのです。全盛期は昭和45年頃といわれ、そのころ芸者置屋は70軒、芸妓だけで400人以上もいたといわれています。

●美人絵葉書「萬龍と扇」絵葉書資料館蔵

赤坂芸者から生まれたスター「萬龍」

赤坂の置屋「春本」の芸者「萬龍」は、雑誌「文芸倶楽部」で行われた美人コンテスト「全国百美人」の読者投票で1位になりました。当時は「酒は正宗、芸者は萬龍」と歌に歌われたほどの名声を博し、出征兵士の慰問用として、萬龍の「美人絵葉書集」が人気であったとか。

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●新しいスタイルで再出発した「金龍」

●各所江戸百景 赤坂桐畑 広重

●金沢から赤坂へ、料亭「浅田屋」