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赤坂ヒストリーPart.1

政治・文化・芸能・マスコミ御用達

人と情報が行き交う赤坂・一ツ木通りの立地

 この街は外堀通りを挟んで、国会議事堂、議員会館、官庁街などが集まり、とりわけ一ツ木通りにTBSが移転してきてからは政・官のみならず、映画、芸能、エンターテイメントなどあらゆる分野の情報や人が集まる場所となりました。今赤坂は時代の先端を行く志士たちが政治や文化、芸術を語り合い、情報を発信する街でもあります。近年、赤坂サカスやBizタワーが完成し、大手広告代理店本社も移転してきて、赤坂一ツ木通りはテレビ、音楽、映画、芸能、出版、広告とプロデューサー御用達の街として新しい歩みをはじめています。
 また、周囲には古くから人びとの尊崇を集めてきた、名社・古刹があり、古くからの伝統や文化が街の人びとの生活の中に根付いています。


一ツ木通りのある赤坂は風光明媚な溜池をはさんで、江戸城外でした。赤坂が発展するのは、明治時代になってから。 日比谷、虎ノ門、霞が関あたりが官庁街となったこと、軍隊が赤坂に来たこと、永田町に国会議事堂が完成したことで深く政治と関わることになったからなのです。

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歴史の転換期の舞台となる赤坂

1850年(嘉永6年)
勝海舟と坂本龍馬の出会いが幕末を急転回へ 江戸時代は紀州徳川家をはじめとする大名屋敷と武家屋敷。これが赤坂の骨格です。蘭学の修行に深川から赤坂に転居した勝海舟。幕閣になって氷川下の屋敷での坂本龍馬と出会い、幕末へと急速に時間を早めた一瞬。明治新政府になると、大大名の屋敷は軍の施設に、その他の大名や旗本の屋敷は明治新政府の役人や軍人、公家たちのお屋敷へ。
1900年(明治33年)
2.26事件(1936)は赤坂の住民にとっても、日本全体にとっても一大事 軍の施設と新政府の役人や軍人の街で、世界恐慌による経済悪化と東北農村の疲弊が引き金となって青年将校のクーデターが起こりました。青年将校が所属したのは赤坂の陸軍第1連隊、近衛第3連隊。その時、赤坂の住民で、時の大蔵大臣であった高橋是清が暗殺されました。町は騒然となり赤坂の住民は戦車や銃砲にさらされる日々を送りました。
1950年(昭和25年)
敗戦・オリンピック・高度成長時代 焼け野原からの復興。TBSのテレビ放送。ご成婚パレード。1964年のオリンピック開催のため、会場への要路であった青山通りの道路拡張。道路拡張による住民の他への移転。外国人来訪者受け入れのホテルの建設ラッシュ。外国客の増加で接待や娯楽のためのバー、クラブ、ナイトクラブ、グランドキャバレーの進出と華やかな赤坂となりました。
2000年(平成12年)
次にやって来たのは日本列島改造論 オリンピックや高度成長政策の後にやってきた日本列島改造論。外国人バイヤーとの商談の増加。公共事業の増加で政財官は花柳界をも巻き込み、その景気の波は赤坂のクラブやナイトクラブ、高級クラブ、グランドキャバレー、ディスコなどにも及び、赤坂は大賑わい。しかし、バブルの崩壊はさ程遠いことではありませんでした。